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御案内

こちらには林昌院に祀られている仏様などのご案内や院からのお知らせがございます。

織田信長公との関係

山号(阿遮羅山)の額縁

慧明法印は大和やまとの人で、幼にして大峯山 大先達 阿吸法印おおみねさん だいせんだつ あきゅうほういん内山永久寺うちやまえいきゅうじに入り、仏教と儒教を学び、あわせて聖宝しょうぽう理源大師りげんだいし)が再興したと言われる大峯山で修験道を極めました。
天文21年、聖地小篠おざき宿で夢想の感を得た慧明は、ここ多楽たらが村にやってきて草庵を結び、不動明王をむかえて、日夜勤行修法につとめました。これが阿遮羅山林昌院あしゃらざん りんしょういんの始まりです。
慧明は清洲城に進出した織田信長公から厚い信頼を得、堂宇の建立を許されます。
今川義元いまがわよしもと上洛じょうらくを企てると、信長は慧明に戦勝祈願を命じて田楽桶狭間でんがくおけはざまへと出陣します。慧明が戦勝呪術をとり行うと突然雷をともなった大風雨が起き、信長は大勝します。
喜んだ信長は林昌院に大定寺だいじょうじ(勝ちを大きく定めた、意)という寺号を与えました。信長は好んで一定いちじょうという言葉を口ずさんでいましたから、大定寺には真実感があります。
慧明の名は広まり、林昌院は修験道の中心道場として栄えることになります。
後の盛時には三十余ケ寺の末寺を数え院家格いんげかく(別格本山)に昇格しました。
現在は高野山真言宗こうやさんしんごんしゅうの末寺となって日夜勤行を行っています。

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